自己責任が世の中に蔓延っている

私たちは、人生において常に選択しているように思いますが、私は決してそうではないと思っています。

寧ろ、決められた道を選択させられていることの方が多いのではないかなと思うのです。つまり元々自由なんてものはなく、自分が選んているようでも、自分の生い立ちからの影響や固定観念から選択しているに過ぎないと思うのです。

つまり、自分の選択は影響力の強いものに大きく左右されていて、選択の余地など本当はないのだと思うのです。

ですので、私の理論から申し上げると、選択の余地がない自由のない中での自分が選んだ道とされる自己責任は本当にご自身で納得でき得るものなのだろうかと思うのです。

自己責任であれば、当然自分の選んだ道なので、諦めがつくという言葉が出てくるかもしれませんが、それって本当に自分が選んだ道なのですかと言われれば、難しくはないでしょうか。様々な条件があり、それをクリアするために選んだに過ぎないというものだとすればそれに責任を持つのはやはり嫌だと思うのが人情ではないでしょうか。

ですから、そういう自己責任という言葉でギスギスした社会を作るよりも、ある程度ゆとりをもって生きられる社会を作れないのかなと考えるのです。もっと言えば善悪二極論ではなくて、場合場合に応じた社会を作ることが出来はしないかと思うのです。

今は、色々な法律を作って、罰則を作る方向へ行っているように思います。確かに人に害を及ぼすようなことをするのは社会的に許されることではありません。しかし、一方から見ると危害を加えたようになっていても、もう一方から見れば「やむを得ないこと」というのも世の中には多くあります。

例えば、この頃よくニュースとかで話題になる、ドライブレコーダーで違反者の動画をあげているものがありますよね。その動画を見ると、なるほど気分の良いものではないのが殆どで、けしからんと思うこともあります。しかし、その動画をあげている人が、どういう意図でもってあげているかによっては、随分変わってきますよね。例えば、本当は自分が気分の悪い運転をしてて、その後で怒らせた相手の映像をあげていればどうでしょう…となると映像だけで判断するのは難しいですよね。動画によっては肖像権の侵害も有り得ますよね。つまり言ってることが正しくても動機が不純だと、とんでもない情報となって広がることもありますよね。これは今のマスコミのニュースでもそうではないでしょうか。事実ではあるけどもそこに切り貼りを工夫して印象操作させることは私も演出家の端くれでありますのでそれが容易なことは分かります。

つまり、こういう気分の悪い動画を見ると、けしからんと思うことは自由です。でも、印象操作が成された中での自由は、それを本当の自由と言えるのでしょうか。つまり、選択の余地が狭められているのに、それに気がつかず、この中のどれがいいですかね?と尋ねているような問いかけであったとしても、暗にこっちの方が良いに決まってるよね!というものが入ってるものでしたら、どうでしょう……。素直に受け取る人でしたら、ヤバいですよね。

このように、世の中は自由に選択しているというふうに思わせるトリックも多いのです。

さて、ここで話を少し戻しますが、自分がありのままではいけないと思っているって…

これって自由にそう思っているのでしょうか?

違いますよね(笑)

これはそう思わされているということですね。

では誰に?ってことです。ここが問題なのです。

これはですね。

影響力のある人

になのです。

これは、言いかえるとこういう人も当てはまります。

依存している人

こういった方々の言葉で、ありのままの自分ではいけないと感じてしまっているのです。

こういう方々のせいで、ありのままの自分ではいけないと感じているといえるのです。そうすると、ありのままの自分を受け入れるためには、そういう人たちと縁を切ることなのかとなりそうですが、決してそういう訳ではありません。

そういう依存したくなる人であっても、影響力のある人であっても、ありのままの自分で良いんだと思って接すること。そのことでもし自分から離れるようなことがあったならば、そういう人だと思ってこちら側から遠慮するという方法で臨めばいいのだと思います。

ただ、その方が会社の中の人であったり、組織の中の人であったりすると、無碍に出来ないこともあるかなと思います。そういう時は、私は自分の圧を上げることにしています。つまり、その影響力のある人には自分も影響力を持ち、依存している人であれば、その人からも依存される中になるように取り組みます。

だけどそうすると、中にはこういうふうに思われる人もいるかもしれません。そういう人間になろうとすること自体、ありのままの自分ではいけないと考えているからのことではないのかということなのでは?と・・・・・

確かに、そういうふうに考えればそうかもしれません。しかし、物事を色んな角度から見ると、一方向で見るとそう考えても仕方がありませんが、別角度から見れば、こういうふうにも見えませんか?

「私は常に人の役に立ちたい」と考えれば、ありのままの自分では達成できない!

と。つまり、ありのままの自分を「しなければならないで」目指すか、「したい」で目指すかという選択の余地が出てくるはずなのです。そしてここにもこういう問題が出てくるのです。この選択も自由に選ぶことが出来るでしょうか?・・・・・ということ。

おそらくそれが自由に選べないから苦労してるのではないでしょうか。ですから、問題はここなのです。

この問題は、自分だけの問題では中々解決できません。周りの理解のもとに少しずつ選択の幅を広げていくことが必要なのです。特に依存状態の場合は選択のよりはないのです。ここで、依存相手が、「自由に選んでも良いんだよ」と言っても、「この人はこっちを選んで欲しいんだろうな」という邪推が働いたりもするので、結局は選択させられていることになりますよね。

つまり、依存している相手から、逆に要求されることもありますよね。その要求には応えなきゃいけないという強引な力が働くので、選ぶ余地などないになってしまうわけです。ですから、そういった、依存しやすい人、であったり影響されやすい人というのは、まず、そのお相手から何も望まれない環境を作ることが大事なのです。

これは、多くの場合、自分の親にあたる人が多いのではないではないでしょうか。しかし、そうでない場合もあるのです。そこで、そういうことが出来るような優しいコミュニティを作って、徐々にそういう選択を増やしていける人を育てていければ良いなと考えるわけです。

世の中はあまりに定規で決められた考えに基づいて、判断をしている人が多すぎる。だから、例外なく、その定規に当てはめようとするから上記のような窮屈な世の中を作ってしまっているように思えてなりません。

そうではなく、世の中は全て調和に基づくものとして、得意不得意があっても、その得意で人を助ける、不得意なものはその不得意なところが得意な人に頼れば良いという考えになれば、実にシンプルに優しい社会が作れるのではないでしょうか。

それには、今の教育のような、決められたレールの上を走るかのような、足りないものを補うようなことをばっかりさせては、当然自分の悪いところにばかり目が行くので、面白くもなんともない考え方の習慣が出来ますよね。これでは自己能力を認めることはなかなか難しくはなるのではないでしょうか。いつまで経っても足りない足りないと考えるので、キリがないですよね。それにそういう考え方だから、ありのままでは許されないのです。

そうではなくて、自分には足りないものはあるが、こういうところでは自分の力が発揮できると考えればどうでしょう。そうすれば見えてきませんかね。

俺の中には、漢文の知識は要らないなとか、英語は要らないとか、数学の方程式とか…(笑)

いるなと思った時に、勉強しても決して遅くはないのです。因みに私の場合、学生の時は歴史が大っ嫌いでした。年号も語呂合わせで覚えてらした方もたくさんおられると思いますが、私はそれすらも覚えていませんでした。しかし、芝居をして台本を読むようになった時、歴史は知っておいた方が、芝居に有利となった時点で、それこそすごい勢いで本を読み漁り、今では周りの人が驚くほどの歴史通になっていますよ(笑)

このように、選択する自由というのは本当はなくて、進んでいく道に行きたい方へ行きたい方へ自分が行けるか、人に行かされるかが決まっているというだけなのです。ここに気がつかないから苦悩してしまっている人は多いと思います。ここに気がつけば、こういう考え方が出来るのです。

選択の余地はない。だから、今から自分は自分の行きたい道に覚悟を持って進むだけなのだ!

そういうふうに若い時からいち早く気付ける環境を作りたい。これが夢物語です。世の中には自分をコントロールしようとする言葉が溢れかえっています。そういう言葉は、人を動かしやすいからです。もしその言葉で動かないのであれば、自己責任という言葉で見放されている現状が多いように思います。しかし、自分で選択しているのではない。選択させられているのです。もしこういう状況下で自己責任と言われると、やるせない気持ちになりませんか。

白黒つけるのではなく、調和を基に人付き合いが出来る社会がもしできていれば、私は自殺する方も絶対今よりも少ないように思います。私は、環境に問題があると思えてならないのです。ですが、その根拠はまた私の中では上手く説明できません。ですから、私はその環境作りを自らで作って良ければと思ってます。

そこに何故、演劇なのかということですが、これはまだ私の中でははっきりと繋がってはいません。

ただ、演劇には人を引き付ける浄化作用を起こす働きを起こすことが出来ます。人のやる気を引き起こすためには、この浄化(カタルシス)がとても重要だと思うのです。心の浄化から、まるで生まれた赤ちゃんのような見るもの全てに興味を示す、天才的な英知を得る機会が出来ます。そこにプラスして演劇は共感性も養われます。この共感が団結となり、社会を変化させる原動力にもなるのです。ですから、演劇から、社会の変革を出来るようにならないものかと考えるのです。

壮大なプロジェクトで、どうやってその世界を作るのか想像もつかない、出来たら本当に素晴らしい世界だと思うのですが(笑)そういう世界を一緒に作っていける人とこれから出会えればと思います。

演劇は社会にとってなくてはならない、素晴らしいコンテンツなのだ!

こういう感じで今は思っています(笑) 夢物語です。

最後までご覧いただき誠に有難うございました。

劇団道化座に13年間所属し、日本各地、海外公演に数多く出演。道化座退団後はフリーで演出・俳優活動を行う。「社会に寄り添う演劇」を掲げ、2019年に劇団ブルアを設立。同劇団代表を務める。現在の演劇活動として、演出業、俳優業だけではなく、関西各地で演劇のワークショップで演技指導も行う。出演回数は400ステージを超え、実践的な演技指導が持ち味。またスタニスラフスキーシステムを独自にアレンジしたブルアメゾッドを作り、「身体動作から感情を誘発させる」演技術を展開し、リアリティーのある演技を追究。「役の人物を介して自分を表現する」「自己探求」などを念頭に演技向上を図り、ありのままの魅力的な自分で勝負する独特の演技コンセプトが好評を得ております。

LINEで送る
Pocket
このエントリーを Google ブックマーク に追加
LinkedIn にシェア

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です