301 ビュー

台本を読んでいるとこの因縁果を思う。台本は筋書きがあるので、因果は簡単に見つけられても「縁」がなかなか見つけられない。「因」は植物で言うところの種。「果」は文字通り果実。では「縁」とは何か……。これは水や空気や土や気候を指す。つまり環境のこと。

これを常に問う。実はこの縁こそが最も芝居で表現しないといけないところだからです。これを見つける練習をしている。熟練の演技者はすぐに答えられる。けれども演劇数年経験者では自分で見つけるのは至難の業で本当に難しい。だから台本を読むのは「技術」なのです。演技者の視点で物事を見れば一発で見えるこの「縁」。それを身につける練習は表現技術を取得するよりも遥かに難しい。

普段の私たちの世界でいう縁とは「有難いもの」有ること自体が難しいもの。つまり

「滅多にない」や「貴重なこと」という意味

現代人の私たちは、有難いことを当たり前のように受け取っているからか、本来の有難味が段々と薄れているように感じる。例えば朝、目が覚めて一日が始まる。体が動いてくれること自体が本来有難いこと。けれど、そのことが実感できず、未来を憂い、過去を省みて、今現在が感じられていない。だから、起きて動いてくれる体に有難味が持てないでいる。本来今をしっかりと感じていれば、体が動いてくれることに対し、今日も動いてくれてありがとうと感謝の気持ちが出てくるはず。この時に「縁」を感じる。つまり「縁」は本来、感謝を感じる刹那(せつな)なのです。私たちはそうした刹那刹那を生きているんですよね。

一方、お芝居でいう「縁」は全て筋書きで作られている。「縁」を感じれば貴重なこととして感謝が生まれ喜びや満足を生む流れを作り、逆に、「縁」を感じられなければ当たり前となり、不服や不満を生む流れを作る。演劇は断言できることが一つあって、それは、普通の話、つまり平平凡凡に話が終わることは絶対にないということ。何故なら、普通に終わっては「劇」ではなくなるから。劇とは劇薬のように著しく変化を伴うということ。劇的作品というものは、登場人物の葛藤を描くために、その前後は劇的に変化させるというセオリーがあるのです。このことを考えると例えば、主人公がハッピーエンドならば、劇的な葛藤の部分。つまりクライマックスで『縁』を感じるように作り込むと良いのです。逆に主人公がアンパッピーエンドならば、劇的な葛藤の部分で『縁』を感じないように作り込むことをするのです。縁を感じる見せ方をする時は有り得ない奇跡を作り出し、縁を感じない見せ方をする時は、当然のように運命を受け入れることを作り出すのです。こういった芝居観から演技プランを導く。この芝居観を養うのに長い月日がかかるのです。私は10年ほどかかりました。

この話は、もしかすると、ご理解いただけないことかもしれません。

私たちは自分という人間を表現する時、どのように表せば良いのでしょうか。肩書きだけでは自分という人間を表すことは出来ません。寧ろ、肩書というのは自分の役割であり、また仮面のようなもの。本当の自分を表しているとは到底言えません。自分という人間を表すためには一つ一つの縁を表すことでしか表現できないのではないでしょうか。私たちは繋がりがあって初めて自分という存在が現れる。自分を2次元で書く線で例えるならば、何かと交差した時に点が生じ、その点から初めて自分の存在というものを感じるのではないでしょうか。自分の考えだけに固執して何とも交差しなかった場合、自分という存在に気がつくことはありますでしょうか。もしも自分という存在を感じるきっかけが少なければ、生きている実感も薄れていくように思います。だから、何かと交差して触れ合う点、つまり刹那を感じた時、そこにいつも生きているという実感が生まれる。つまり、良いことも悪いことも、自分が出会う一つひとつの刹那を感じることが出来れば生きているという実感が湧くということ。私は演劇台本を研究し続けていく内に、この事に気がつきました。

この一つひとつの刹那を感じることが果たして現代人に出来ているのか。これが現状のバロメーターになっているように感じます。自分の人生を振り返り、走馬灯のように生い立ちをみる。その時に、自分が何を大切にしていたのかを知る。私は今を生きるというそういう刹那刹那をたくさん感じている人生を歩みたい。そして、私が演劇人として役の人物に取り組む時は、その刹那刹那をたくさん創作して、役の人物を介して自分を表現することをしたいのです。