
演劇って文学的なイメージがありますよね。おそらく殆どの方がそのようにお感じになられてるのではないでしょうか。演劇は文系としてお感じになられる。私もその部分はあるかなとは思います。
ですが、私の場合は、「観る側は」という補足言葉がつくと、このように思っているのです。
またまた不思議なことを申し上げておりますが、さらに申し上げると、作り手はそうではいけないと考えるのであります。何故そう考えるのかをこれからご説明させていただきます。
まず、「文系とは何ぞや?」ということですが、ざっくり言うと、思想や人の情動を言葉で表す学問なのではないかと思います。これは、例えば、思想から生まれた言葉を聞いてどのように感じ、学びを得るかということ。演劇は言葉だけでなく、様々な表現を使って、観客に何事かを語りかけている訳ですが、その中で言葉によって語りかけていることもありますので、観客にとっての演劇は文学的であると言えます。
ですが、作り手はそうではない。むしろ作り手にとって文学的ではいけないということ。
実は私は、演劇作品の作り手は演劇を「科学的」に考える必要があると思っているのです。科学とは文学のいわば「対極」に当たる学問。科学とは、観察や実験を通じて物ごとの再現性を確かめその法則を見つける学問で、これには客観性も伴うところがあります。つまり、この事を簡単に言えば、「演劇作品の作り手が同じ表現をすれば必ずお客様の反応は同じになる」というところまで持ってくることが必要と考えているのです。
そして、その表現手段が演技という技術で演技は科学的に作り上げるべきだと考えているのです。つまり、
お客様が必ず感動して下さるという表現技術を役者は身につけなければならない
ということなのです。ですから、作り手は科学的に物事を作らなければいけないと感じるわけでございます。
そして、お客様が必ず感動するという技術は確実に存在するのですが、この技術を駆使した演技者で演劇を作っていたならば、演劇はもっと世の中に受け入れられたものであっただろうと私は考えております。ですから、人を必ず感動させる技術をお持ちの方がこれからの演劇の中で大勢になりましたら、演劇が世の中にとって「なくてはならないもの」になるのではと、大変微力ではございますが、俳優を養成する活動に力を入れているところでございます。
私の演技指導の中で
演技というものは、観客がどのようにお感じになるかまで責任を持つもの
であるべきで、そのためには、お客様のご覧いただいている心理状況から組み立てた演技プランから作り込まなければなりません。つまり、気持ちや根性だけでは芝居が出来ない緻密な計算から作り上げた演技を構築しなければいけないということですね。
こういう考えでもって演劇に取り組めば、いつしか演技による再現性が確立され、お客様から共感を得られるようになり、俳優としての自信を深めることになるのです。
こうすればこのように見える
という所作は当に実証性、再現性、客観性全てを備えた演技。つまり説得力のある演技であるから、こういう演技を身につけてみませんかということです。
もしも、文学的な考えで演技に取り組んだならば、演技の答えが何通りにもなり、その結果、お客様がどう見るかは分からないという、恐ろしく身勝手な表現となってしまうのですね。これを演技というのでしょうか(笑) 何をもって技術というのでしょう。それはただ単に演じているだけなのではないでしょうか。答えが何通りもあれば再現性もないので、上手くいったりいかなかったりすることもあるでしょう。もしもお客様が商品を買う際に、その時々で良い悪いという商品であったならば、誰もその商品を買わなくなるのではないでしょうか。これは舞台でも同じことが言えます。もしも、舞台を一度ご覧になられて、悪い状態のものをご覧になられたら次はない。そういう非常に怖い世界でもあるのだと思います。
ですから、再現性を髙め、お客様に必ず満足していただけるよう科学的に作品作りをしなけらばいけないと私は思うのです。今まで演劇の作り手自身が文学的に逃げ過ぎたのかもしれません。そうすることで、演技探究が疎かになったのではないでしょうか。
昔から教わる所作は、科学的に作られた演技術です。
何故なら、実践で培った技術は、毎回お客様を感動させる再現性があり、大多数の人が共感いただく客観性も兼ね揃えている技術なのです。こういった実践の演技を駆使しなければ、演劇は「演劇がしたいだけの人の集まり」になってしまって、世の中からより距離を置かれるコンテンツとなるでしょう。「演劇ごっこ」で良いのでしょうか。
本来演劇というものは、とても素晴らしいエネルギーを生む人間にはなくてはならない芸術だと思っています。ですので、何としてもまずはその演劇の一番の魅力「俳優力」を身につけてもらいたいと真剣に考えております。ですがこの俳優力を身につけるのはなかなか難しく、何故難しいかというと、実際に今演劇をなさってる方の中でも、演技を誤解されている人が多いからです。多くの方が演技ではなく演じているだけ。
こういうことを申し上げると、今演劇をなさってらっしゃる方からお叱りを受けるかもしれませんが、世の中から見放されている現状を鑑みれば、これは私たちが認めなければいけないところだと思うのです。
ですから、本当の演技とはというところからお話ししないといけないのです。
そしてこのことは私の演技指導している様々な機関でも申し上げているのですが、
演技というものは見えない技術
だということを理解する必要があるということです。素晴らしい演技者の技術は、同じレベルの演技者でなければ見えない。つまり、駆け出しの俳優からは素晴らしい演技者の技術は見えないのです。
素晴らしい演技者は学校にはいません。現場にいます。実践で培った人。この実践で培った人の演技は現場でしか見られないのです。
しかも、それはお客様と勝負している舞台ですので、教えていただくという環境ではない。だから、
駆け出しの俳優は素晴らしい俳優の演技を盗む
しか方法がなかったのです。つまり今までは、実践現場でしか教われなかったのです。見えない演技を見えるようにするには、「目付」といって、ある種の基軸となる考えでもって見なければなりません。この機軸がフィルター(ふるい)の役割を果たし、飛び込んでくる情報の良し悪しを判断するのですが、この機軸を間違えるとそもそも全く的外れな見方になってしまったりもするので、観る目を養うというセンサーが大切になるのです。
ですがこのセンサーは。たくさんの目付で経験した的はずれを経ないと得られないので、現場で、素晴らしい演技者の芝居を色んな目付で見ることが重要なのです。この不必要な経験とも思える様々な目付での観察は、やがて凄い力を生みます。この色んな目付での観察は、その観察から得られるのではなく、その観察行動が信念体系まで響き渡り、その信念から、ふと自分が意識しなかったときにふっとどこからか情報が降りてくるのです。一種のひらめきのようなアイデアが生まれ、そのアイデアから素晴らしい演技の観察をすると、不思議なことに一発で見えてくるということをひき起こすのです。
これを他力本願といいます。つまり阿弥陀如来のお力がお働きになって、自分の力に手をお貸しくださったというわけです。
不思議な話をしてますが、こうして芸術創作が奇跡を生むのですね。これが本来の演劇をする魅力なのです。演劇を作っていく上で、自分の力を過信してしまうと、このような奇跡は起こりません。それよりも私たちは常に奇跡を生む。そのために意識を高く持ち、その創作活動が本願となれば、自然とそういう奇跡的なことが起きますよということなのです。つまり、
演技者は毎回奇跡を起こす人
であってほしいのです。何事も一心に取り組めば、必ず何かの形で教わるのです。そうしてこの指導から作り上げた表現を駆使すると、芸術の花が咲き、多くの方々に感動をお届けできるようになるのです。
ですが、この理屈は経験した人にしか分からないことかと思います。ですから、私たち先駆者は、そこへ行く道を教えることしか出来ません。
やれば分かるから‼
こうした再現性をお伝えすることしか出来ないのです。そこが演技をお教えする一番の難しさだと思います。やれば分かるから四の五の言わんとやれと言えた昭和の時代の頃の方が到達者は多い。今はそういうことが難しい。ですが、言い換えれば、頭抜けることは昔よりも簡単ではあるのです。ナンバーワンになる術を身につけること。それを真剣に考えられる人が増えれば良いなと思います。

さいとうつかさ
劇団ブルア 代表
劇団道化座に13年間所属し、日本各地、海外公演に数多く出演。道化座退団後はフリーで演出・俳優活動を行う。「社会に寄り添う演劇」を掲げ、2019年に劇団ブルアを設立。同劇団代表を務める。現在の演劇活動として、演出業、俳優業だけではなく、関西各地で演劇のワークショップで演技指導も行う。出演回数は400ステージを超え、実践的な演技指導が持ち味。またスタニスラフスキーシステムを独自にアレンジしたブルアメゾッドを作り、「身体動作から感情を誘発させる」演技術を展開し、リアリティーのある演技を追究。「役の人物を介して自分を表現する」「自己探求」などを念頭に演技向上を図り、ありのままの魅力的な自分で勝負する独特の演技コンセプトが好評を得ております。
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