今、自分が中庸でいられるかどうかは、偏ったモノの見方ではなく、多方向から見たものであることが求められます。

特に「こうあるべき」であったり「常識的に考えて」という言葉を多用していると、他の思想を排除しかねない偏見を招くことになりかねません。

コペルニクスは根底から覆す「地動説」を唱えましたが、当時信仰されていた「天動説」を覆すにはかなりの時間がかかったとされています。

このようなことを知ると、私たちは現在でもそれと同じようなことを繰り返しているように思えてなりません。

例えば、私たちが子どもの頃によく聞いていたのは、

21世紀になると食べ物がなくなるからという話があり、新たな食品開発をして備えようというのがあったり、石油はあと35年で枯渇するというような話がありました。(1970年代当時の話)

ですが、そのような現実は今起きているかというと、そんなことはありません。

今でも飽食でありますし、原油もあと何年で枯渇するという話は今は聞きません。勿論、技術の進歩で、それらの説は防げたのかもしれませんが、危険を煽り、より差し迫った行動を促す方法があるということも事実です。

そのような色んな情報をどのように見極めるかは、一人一人の感覚で判断するものであって、人から聞いたもので判断してはいけない。

そのように私は思っております。

便利な世の中になればなるほど、その分私たちは何かを失っている。

便利になると、やがてあるのが当然になり、さらにより便利なモノを得ることで快適な生活が送ることが出来て生活の豊かさにも繋がっています。

しかし、その便利な裏側には、それがなければいけないという依存を生むことにもなっています。依存があると自分の考えは常にその依存したものを中心として考えてしまうようになるので、これはある意味「外からコントロールさせられている方法」だとも言えるのです。

「それがなければ困る」

そのように思っていると感じていても、実際は…

『それがなければ困ると感じさせられている』

のかもしれないのです。

私自身は便利な世の中になることを否定している訳ではありません。しかしながら、これがなければ生きていけないというものを出来るだけ外して生きていきたいなと思うのです。

こうすることで、

自分の行動に責任を持つ

ことがしたいのです。

簡単に言うと「こんなはずじゃなかった!」と思うような人生にしたくないということですね。

さて、次のページでは『どうして自分の行動に責任を持てば人生が面白くなるのか』という話をいたします。

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