俳優は筋書きが決まった世界を生きる。

だから自由な意思では生きられない。

決められたことを守って生きることが俳優に求められる。

確かに、筋書きから外れてしまうと物語が成立しませんので、上記のことは間違ってはいません。

しかし、台本に書かれていることは誰もが同じ感覚で捉えているかと言われれば、必ずしもそうではありません。

同じ作品であっても、違う劇団で上演すれば、全く違って見えるということもありうるからです。

それは、台詞の捉え方が単一でなく、色んな作り手の方々の人生観からのモノの捉え方があるから違った作品のようにみえると言えます。

ただ、全ての作り手が作者の書いた戯曲の意図を汲み取れば、どの作り手のお芝居をみたとしても、多少の変化はあれど人の心を突き動かすテーマは同じように感じるのではないかと私は思っています。

一つの作品を多くの人が心を一つにして作り上げる演劇こそ最高の演劇だと思います。

全てが、ぴったりとはまり、調和を成した作品は人の力では絶対に成し得ない奇跡的なものだと思えるからです。

このように、私たちは奇跡を起こすことを常に行っていると言って良いのかもしれません。

練習を積み重ねて、失敗から沢山なことを学むことで、正しい道に導かれるような印象さえあります。

その導かれている道がもし本当にあるのであれば、私は自由な道ではなくその正しい道を通って毎回歩きたいものなのですが、

なかなかそうはなりません(笑)

殆どが間違った方向で、正しい道はまるで消去法のような進み方で見つけているかのようです。

正しい道があるのではなく、行く道が正しかったという感じでしょうか。

そのようにして今活動を続けているところであります。

さて、今回の表題で挙げた

自由な意思で行動することの大切さ

についてですが、

私たちは台本をどのように捉えるかで作品と対峙します。

しかし、どのように捉えるかは決して一方向ではなく、どの角度から見ても

辻褄の合う様になる捉え方が絶対不可欠なのです。

自分ではこのように捉えたのでこういう風に演じてみたいということがあっても、

辻褄が合わなければそれは間違った捉え方になります。

この辻褄を合わせるためには、時代背景や、場所、状況、個々の役の人物など様々な視点から見なければいけません。

どの角度から見てもおかしくなく辻褄があっているとなって初めて、それが正しい道であろうと練習を進めていくのです。

ただ、今は簡単に言いましたが、この辻褄は普通に読んだだけではなかなか合いません。

セリフの表現が直接的だと合いやすいのですが、間接的なものや、ひねったものになると

「セリフではこう言ってるけど、たぶん違う意味合いで言っているかも」

というものもたくさんあるのです。

ではどういう意味合いで言っているのかを突き止めたいのですが、

簡単に突き止められるかと言えばそうではないのです。

なぜ突き止められないかというと

他にアイデアが浮かびにくくなっているからです。

ではどうして他の言い回しのアイデアが浮かんでこないのかというと、

台本に書かれていることを忠実に守ろうと考えると

考え方が一通りになりがちになるのです。

ですので、私たちはこのように台本を読みます。

台本は疑って読む

ということをします。

こんなことを言うと作者の方に大変失礼なので、怒られそうですが(笑)

「本当にこの本は面白いのか?」

と読むことで問題意識が生まれるようになるのです。

これは普通に読んだら面白くないけど、全然違う発想で読んでみたら、

意外に辻褄が合うよね

っていうものが見つかったりする場合が出てくるのです。

要は、台本が正しいと思えば、捉え方は限られ、限りなく不自由になりますが、

台本を疑って読めば捉え方はかなり自由になるのです。

例えば、

捉え方が限られてくると、「怒っているような台詞であれば怒っている」としか思えなくなるのですが、

捉え方が自由だと「ここのセリフは怒っているけど、怒らずに笑っていればどういう感じに見えるんだろうか」と違う考えも頭に浮かぶ可能性がグーンと上がるのです。

ただ、闇雲に色んな想定を思い浮かべるわけではありません。ちゃんとある程度想定を持って試すのです絞ったイメージを試すのです。

ではその「ある程度の想定でもって絞ったイメージ」とはどういうものか???

それは、

一番最初に台本を見た時に、自分がその作品に対してどう思ったのかということを指針にしてそこから想定する

ということです。

作品を初見で読んで完全に物語を理解したという人はまずいません。何回か読んでいくうちに、

「ああ、これってそういう意味だったんだ」

ということが殆どです。

だから、台本を何回も読むことはとても大切なことなのですが、

実は台本を何回も読むことによって、失うものもあるのです。

それが、

物語を純粋にみる目

です。

一回目に感じたものは二回目読むと、上書きされてしまってその新鮮さが失われるのです。

そして、何故、初見の印象が重要かと言えば、

初見で台本を見た感覚と、劇場でこの作品をご覧になるお客様の感覚が一番近いから

というわけです。

つまり、初見の印象を見せ方に活かせることが出来れば、かなりお客様のニーズが分かったストラテジーが組めるのです。

そして、この初見の印象を指針として、物語を見ると初見のイメージではこう思っていたが、セリフはこうなっているんだという

自分のイメージと実際に書かれている文章(セリフ)の意味合いの乖離が顕著になるのです。

そして、ここからがポイントです。

「じゃぁ、初見のイメージが間違っていたんだな」と考えてはいけません。

ここで疑うのです(笑)

「セリフはこういう感情で書いているけど、初見の印象はこういう感情で言わなきゃ印象通りにはならないんだよな」

と、強引に初見の印象の感情をそのセリフに当て込むのです。

そうすると、これが本当に不思議なのですが、これが意外に辻褄があったりすることがあるのです。

勿論つじつまが合わないこともありますが、

初見で見た印象はなかなかバカにならないのです。

しかも、これは自分を信用している行動になりますので、もしこれで辻褄が合うことになると自分の感覚が養われたことになり、かなりの自信につながるのです。

良いこと尽くめです(笑)

このように考えると如何ですか?

台本の枠に捕らわれてはいない自由な発想のように思えませんか?

このようの台本を読むと楽しくなるのですよ。

間違えてても、突飛な発想であるから、簡単に諦められることは出来るし、こういう発想を重ねると別のところで引っかかったりして本当に面白くなってきますよ。

このように、自由な意思で行動するやり方を身につければ、確実に行動は楽しくなります。

最後にですが……

この話は私たちの普段にも言えることなのかなと思います。

私たちは自由な意思で動いていると思いがちですが、本当はそうではないように思います。

色んな固定観念や、社会との摩擦で自由な意思で行動できないことの方が寧ろ多いように思います。

この時に重要なのが、物事の捉え方ではないでしょうか。

冒頭で、台本は制約が多いから自由はないと申し上げましたが、結論は自由な意思で行動できると申し上げました。

不自由の中にも自由はあるということです。

不自由を不自由と感じるから選択の余地がなくなり、何もかも強いられてしまう。

しかし、強いられているいう中にも自由はあります。

正しい道に導かれている感覚は不自由な中でも、自分はこのように行動したいと選んだからこそ、そういう感覚に成れたのだと思うのです。

正しい道に導かれているというのは、おそらく私ならばこの道を選ばないであろうなという道だったから、その道を歩んでいる自分に不思議に思い「導き」に感じたのだと思います。

何故この道を自分は進んだのか?

これは、目の前の出来ることに目を向けてそれに一心になって進めば、次にまた出来る道が出来て、どんどん道が出来てくる感覚ですね。

ない道を進んでいる訳ですから、当然選んだ道というよりも気がついたらその道を進んでいたとうこと。

だから、これは「こちらを進めということだったんだな」という神がかり的なものを感じるのです。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

劇団道化座に13年間所属し、日本各地、海外公演に数多く出演。道化座退団後はフリーで演出・俳優活動を行う。「社会に寄り添う演劇」を掲げ、2019年に劇団ブルアを設立。同劇団代表を務める。現在の演劇活動として、演出業、俳優業だけではなく、関西各地で演劇のワークショップで演技指導も行う。出演回数は400ステージを超え、実践的な演技指導が持ち味。またスタニスラフスキーシステムを独自にアレンジしたブルアメゾッドを作り、「身体動作から感情を誘発させる」演技術を展開し、リアリティーのある演技を追究。「役の人物を介して自分を表現する」「自己探求」などを念頭に演技向上を図り、ありのままの魅力的な自分で勝負する独特の演技コンセプトが好評を得ております。

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