私の演劇人生は阪神大震災と共に歩んできたように思います。当時私は、大阪に住んでおり、被災はしませんでしたが、当時所属してた神戸の劇団は、火災による消失で、劇団代表(お師匠さん)夫妻と連絡がなかなか取れませんでした。お師匠さんの無事が分かってそのご家族の元へ駆けつけられたのは震災2日後のことでした。
駆けつけたところは大阪の都島にある共同住宅の一間。
お師匠さんと奥さんと私の三人でコタツに入ってしばらく無言の時間を過ごしました。
そして、
「さいとう、お前これからどうするねん。」
とお師匠さんに言わました。
「いや、何も考えてません…」
口では言いませんでしたが、この時の私の正直な気持ちを話すと、
もう芝居は絶対に出来ないな
と思っていました。
もう続けられないかな……
そう思っていたのです。
その当時、私は芝居をはじめて3年目。
以前のブログでも何回か記しましたが、芝居を始めたきっかけが、
赤面症を治すこと
でした。そんな自分がお師匠さんと劇団のお陰で、芝居が好きになり、この世界で頑張ってみようかなと思うようになった、その矢先でした。
しかし、私の大根役者ぶりは凄まじく(笑)
練習しただけで笑われるという、とんでもなく場違いな人だったので、正直、ここの劇団を離れて違うところの劇団でというのは通用しないと思っていましたから、
ここを辞める=芝居を辞める
という思考回路になっていましたね。
そしたら、次にお師匠さんがこう尋ねてきました。
お前はどうしたいんや?
それを問われて思わず、
それは……芝居やりたいです
と言いました。するとお師匠さんが
なら、そないしょうか。その代わり、しんどいぞ
そういう経緯から、震災後の12日後に舞台セットを作り上げて1995年に1月29日、大阪の茨木の市民会館で公演を行うことが出来たという経緯がありました。
……辞めようという気持ちはどこに行ったんだろう(笑)
でも辞めなくて良かったです。
辞めていれば、今の仲間と会うこともなかっただろうから。
さて、この話の本題ですが、
『お前はどうしたいんや?』
と聞かれたことがポイントだと思っています。
結論から申し上げると、
やらされている人は出来ないことにしか目を向けず、やりたい人は出来る事に目を向ける
これに気がつかされたのです。
私もこの「どうしたいんや?」という質問が来るまでは「やらされている」側でした。
しかし、道が途絶えて、前に道がない時に、はっきりともう、お師匠さんを頼ることはできないと思ったのです。
そのお師匠さんから「したい道を選べ」と言われたような気がしたのです。
自分のやりたい道は色々あったと思います。もちろん辞めるのも道でした。
しかし今から行く道を決めても良いと言われた時、もうそれが本当に嬉しくて、出来るなら、今度は僕が助けてあげたいという気持ちになったのです。
おこがましいのですがね(笑)
それから、アルバイト先に事情を言って辞めて、昼夜劇団の活動に励みました。
休憩中の缶コーヒーがとっても美味しかったのは今でもよく覚えています。
作業終わりの夜中の帰りにたこ焼き買って歩きもって食べたことも…(笑)
お風呂に入って、ペンキのついた手をゴシゴシ洗い、赤切れで絆創膏を剥がし剥がししたことも。
今日も一日よく頑張ったな!!
一銭にもならないけど、誰かのためになってるって良いよなと思えてる自分がいました。
俺……これがしたいんだわ
若い頃の私は、云わば「背水の陣」になって、初めて自分の演劇への向き合い方が分かったような気がしました。
この時ほど、自由なものはなく、どこまでも自分がやりたいことが出来ていように思えたんです。
周りからしんどいだろうと思われていても、芝居が続けていけたのは、こういう経験があったからだと思います。
ただ、私の場合はこのようなきっかけがあり、そこに運よく気がつくことが出来ましたが、誰もが背水の陣を経験するわけでもないように思います。
そこで次に、背水の陣ではなくても「どうすればやりたいことが出来る自由を手に入れられるのか」というお話をさせて頂ければと思います。